衣服と満員電車~女性専用車両は男性差別か

 衣服には皮膚を護ったり体温調節をするという生きていく上での重要な役割がありますが、身体を保護するために衣服を着ている、と日常的に意識することはあまりないと思います。


 保護目的という点において私が唯一 "服を着ていてよかった" と感じたのは、中央線の朝のラッシュの満員電車です。
 高校を卒業後、東京の専門学校に通うために田舎から上京し、都会の満員電車に初めて乗りました。自分の全身の力を抜いても立っていられるくらいぎゅうぎゅうのすし詰め状態。押されて身体が痛いほどでした。そんなときに、ふと、(もしも皆が服を着ていなかったら…)と想像してしまいました。
身の毛がよだつような不快感、と同時に服という厚さ数ミリの布切れが、第二の皮膚となり、自分の内と外との境界線の役割をはたしてくれていることに気が付き、有り難く感じました。
そして、他者と接触はしているのにどうして厚さ数ミリの隔たりがあるだけでこうも感じ方が違うのだろうか…と少し疑問に思いました。



 十年越しに当時抱いた疑問を探ってみたら、女性専用車両の存在意義に繋がっていったので書いてみたいと思います。




(何を不快に感じるかは個人差があると思います。すべて私の主観ですのでご了承ください)


 身体が布で覆われていれば不快度が減るのであれば、電車に乗っている人達全員が透明の服だったらどうでしょうか。
皮膚が布で覆われていても、透明な服で裸が見える状態では他者と触れ合っていないとしても不快度は高いです。
では、皆が透明の服で目隠しをしていたらどうでしょう。
他者との接触がなければ不快ではないと思います。
しかし密着状態では、目隠しをして透明の服を着ていても、他者との接触は不快に感じると思います。


とすると、不快感は主に視覚と触覚によって起こるもので、見えない・触れない、が見ず知らずの他人との距離感として相応しいのだと思います。

 
 衣服は裸体を隠し、直に身体に接触することをできなくしていたために、薄っぺらいけれども満員電車という異常ともいえる空間の中で大変重要な役割を果たしてくれていたのです。

 裸を見られることと身体に触れられることは自分の内部に関わってくることなので、そこを赤の他人に介入されると多くの人が不快に感じると思います。

 
 そして、視覚と触覚は性的な興奮にも繋がりやすいと思います。
男女の体の違いによって男湯と女湯が別けられていることを良しとするのであれば、密着状態の満員電車も男女で別けることは良しといえるのではないでしょうか。
女性専用車両は痴漢対策や男性に恐怖心がある人のためだけでなく、男女の体の違いのため、または身体が不自由な方や子どもなど体格差がある人のためにも存在しています。

 だから私は女性専用車両男性差別ではないと思います。ですが男女平等かといえば平等ではない気もします。平等にするためには、男性専用車両を作ればいいと思います。痴漢の冤罪にあいたくない人や女性恐怖症の人、様々な人たちがいると思います。
 
 
 そもそも満員電車というものがなくなれば男女を区別する必要性はなくなるのかもしれません。