「心配です」を考える

"心配"とは文字通り心を配ることであり、ある対象に向けられた気がかりな感情を表す言葉である。「心配です。」と対象に向かって発するとき、その響きは相手に対する思い遣りのように感じるが、ほんとうにそれだけだろうか。もちろんそのままの意味で使用し、そのままの意味で受け取ることがほとんどだと思うが、相手の状況やお互いの関係性によっては、少し注意が必要かもしれないと思う。



瀕死状態の人に向かって、「大丈夫?心配です。」と声をかける人はほぼいないだろう。大丈夫でないことが目に見えているから、そんな言葉をかけてもお互いになんの気休めにもならないことが解っているからだ。そんなときにはどうするだろうか。何も言わずにただ相手の側に居て、手を握ったり、背中をさすったり、微笑んだりするのではないだろうか。

大切な人を亡くし酷く塞ぎ込んでいる人に対して、時間も置かずに「大丈夫?心配です」という言葉だけを投げかける人はいるだろうか。そういう人がいるとしたら、それは口先だけの心配か(口先だけで有難いときもある)、相手の気持ちを想像してみない人か、相手からの「大丈夫。」という返事を心の奥で待っている人なのではないだろうか。

相手から「大丈夫。」という返事を得られたときに感じる安心は、ほんとうに相手が無事で良かったという安心感だろうか。

相手から「大丈夫。」という言葉を聞き出せたことにより、自分は相手に対して敢えて行動を起こさなくていい、自分の生活を変化させなくていい、という安堵感がそこに混じっているのではないだろうか。



「心配です」の中には「不安です」が含まれているから、心配される状況である側が「大丈夫」という安心を与えなければならなくなり、知らず知らずのうちに立場が逆転していることがある。(大丈夫でない、と言える人ならいいのだが)

だから、相手の状況や関係性にもよるが、安易に「心配」という言葉だけを投げるのは、ときに相手の重荷になってしまうことがあると思う。誰かを心配に思ったときには、まず自分でその気持ちを受け止めて、自分の不安を減らすためでなく、どうしたら相手が安心できるのかを考えると、言動が変わってくると思う。



肉体の傷はわかりやすいが、精神の傷はわかりにくい。うつ病の人に"頑張れ"と言ってはならないと言われているように、心が瀕死状態にある人には「心配だよ。」よりも「大丈夫、安心して。」と言い、できれば側に寄り添っているのがいいだろう。



ほんとうは、言葉のもつ意味そのままに発して、そのまま受け取ればいいはずなのに、発信者が自分の奥底の気持ちに気づいていなかったり、気づいていてもその感情を言葉で言い表せなかったり、思っていることを隠そうとして違う言葉が出てきたり、表情と言葉や行動と言葉がちぐはぐであったりすると、感情はうまく伝わらずに、言葉は宙に浮いたままになってしまうだろう。発信者が真っ直ぐであっても受信者が歪曲して解釈してしまうときも、言葉は宙に浮かび風に吹かれる砂のように消えてしまうだろう。



他人事のように書いているが、私がこんなふうに言葉の背後にあるものを考えてしまうのは、私の中に恐れがあり傷付くのが恐いからだろう。相手に間違った物言いをしてしまったら謝って訂正すればいいし、相手の伝えたいことがわからなければ、深く聞いてみればいいだけなのに、あれこれ考えたあげく何も言えなくなってしまったりするのである。

言葉足らずで説明下手と言われる私は、パーピープー(擬音語)と図や絵で表現した方がとても気楽なコミュニケーションに思えるがそうも言っていられないので、まずは私が私を信頼し、真っ直ぐに他者と向き合っていきたいと思う。






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月の裏側のような尊い嘘も必要か…